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S君。あるひとりのボクシング好きの話。前編【no.0351】

 先週の金曜日、八重樫東とローマン・ゴンサレスのWBC世界フライ級タイトルマッチが行われた。テレビで観戦した人もいるだろう。久々に、心の底の魂が揺さぶられる試合をみた。ボクシングとは元来、あのようなものなのだ。この試合をきっかけに、1人でも多くのボクシングファンが生まれることを望んでいる。

 この八重樫東とローマン・ゴンサレスのタイトルマッチ。試合としての世界的な位置づけや、日本ボクシング界における価値など、長年のボクシングファンとして語りたいところではある。しかし、今日のブログで書きたいのは、ある1人の男の話である。名前をS君と言う。これは、全くの実話である。

 S君との出会いは、2001年だから、もう13年も前のことだ。現在のラジオNIKKEI、当時のラジオたんぱで行われていた「スポーツジャーナリスト講座」というセミナーの第二期受講生。それが私とS君だった。

 スポーツジャーナリストという存在が確立してきたのは2000年以降だった。オリンピックや世界陸上だけではなく、メジャーリーグに挑戦する日本人や海外サッカーリーグに挑戦する日本人が増えるのとともに、元新聞記者、元雑誌記者がスポーツ専門のジャーナリストとして注目され始めた。2002年のワールドカップ日韓共催を控え、スポーツ紙、スポーツ誌に加速がついている時期でもあった。

 当時、東京で行われているスポーツジャーナリスト講座は2つ3つあり、その中でもっともポップでないのがラジオたんぱのスポーツジャーナリスト講座だった。受講生の募集も、文藝春秋のスポーツ誌「Number」に、小さく、そしてたった2回しか載せない。そのたった2回の広告を見て申し込みをした同期が15名ほどいた。私もS君もその1人というわけだ。

 私は翌年に就職活動を控えていた。就職自体への興味が薄かったものの、もし就職するならばスポーツを書く世界に入りたいと思っていた。まずは、スポーツ新聞の記者、もしくはスポーツ担当の記者になりたいという気持ちがあった。スポーツジャーナリスト講座で実力を高められればと思ったし、もしかしたら業界につてができ、横道から滑り込めないか、などとしたたかに考えていた。中学から長く続けてきたバンドを1年前に辞め、アルバイトと大学を往復する生活に危機感を抱いていたのもある。自腹で出す7万円の講座料は、学生には決して安くはない。

 S君の目的は就職活動ではなかった。というより、S君は私よりも4つ年齢が上だった。当時、25歳。しかも、住んでいるのは大阪だった。だから、毎週、講座のたびに、高速バスに乗って大阪からきて、講座が終わると高速バスで大阪に帰っていた。スポーツジャーナリスト講座の開催は、平日の夜19:00から2時間だったと思うから、S君は何とか仕事を調整して上京していたのだろう。大阪で社員として働いていたのか、アルバイトで働いていたのか、そこはよくわからない。

 ただ、この講座のためだけに、大阪から東京にわざわざ来ていたわけだ。だから、S君が支払っていたコストはスポーツジャーナリスト講座の受講料だけではなかった。時間とお金、いろんなものを犠牲にして、この講座に通っていたのだ。大学生だった私は、「仕事しなくて大丈夫なのか?」「親は何も言わないのか?」「そもそも大阪からわざわざ出て受講するほどのものなのか?」と、様々な疑問を持ってS君のことを見ていた。

 S君はスポーツジャーナリスト講座にかけていた。わずかな可能性があるなら、東京にだって出ていく。時間とお金は関係ない。もし、自分が望むような講座でなかったとしても、それは仕方ない。そんなことよりも、可能性にかけたい。そう思ったのだと思う。

 そんなS君の諦めきれない夢は、「ボクシングを書く」ことだった。

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ishida

石田 麻琴 / コンサルタント

株式会社ECマーケティング人財育成・代表取締役。 早稲田大学卒業後、Eコマース事業会社でネットショップ責任者を6年間経験。 BPIA常務理事。協同組合ワイズ総研理事。中小機構販路開拓支援アドバイザー。